我ら、ぼにぴん人

石巻で新しいコトを始めたり、これから始めようとする人たちのスピリッツをご紹介。

2016.05.10

街に色を取り戻したい~後藤文吾さん・芙紀子さん

定年後は、海外にでも移住しようか……。

そんなことを話していたら、59歳の時に東日本大震災が発生。

「悠々自適の年金暮らし」の舞台はそのまま、

仕事で訪れた石巻になった。

5年目を迎える移住生活は「ようやく花が咲いてきたところ」。

そんな後藤夫妻にお話をうかがいました。

2011年に愛知県名古屋市から移住した後藤文吾さん(64歳)、芙紀子さん(64歳)

2011年に愛知県名古屋市から石巻に移住した後藤文吾さん(64歳)、芙紀子さん(64歳)

 

【すべてが転がるようにして】

名古屋で建築会社を経営していた後藤さんご夫妻。

夫の文吾さんは、東日本大震災の2カ月後、

保険会社からの依頼で石巻に約1カ月間滞在。

地震保険料査定のため、社員20名とともに約800軒の倒壊家屋を調査して周った。

「今までにも、仕事で阪神淡路大震災や中越地震などの被災地に行きましたが、

今回の現場はまったく違う。

日和山から石巻の街を見下ろした時のショックと言ったら……。

虚しくて、人生観がガラリと変わってしまいました。

ここに住んで、何かをしたいと思いましたね」

もともと、仕事を辞めたら海外にでも移住しようかと

ぼんやり考えていたと話す文吾さん。

同じとき、名古屋では妻の夫紀子さんが

ボランティアチームの一員として、

毎日被災地に送る支援物資の仕分けを担当していた。

送り先は「宮城県石巻市」。

偶然にも、文吾さんが滞在している場所と同じだった。

【何もなくなった場所に率先して住みつく】

60 歳を目前にして被災地に立ち、

「ここに住もう」と決めた夫の心に、妻・夫紀子さんも特に異論はなかったと話す。

「移住先で悠々自適の年金暮らしは、共通の夢。

でも、自分たちが楽しいだけの生活は嫌だと思っていたので、

私も石巻のような場所で、何かできることがあればと思いました。

震災後は忙しく、名古屋での仕事はとっていなかったし、

ちょうど年金がもらえるようになる年。

夫がいったん石巻から戻ってきてすぐ、

会社をたたみ、住まいを移すのもスムーズでした。

子どもたちも既に結婚して独立。

誰も反対はしませんでしたね」

学生時代は青年海外協力隊に憧れつつも、

トライすることなく社会人になったという文吾さん。

結婚後はふたりで建築会社を営みながら、趣味で国内外を飛びまわった。

そんな姿を見てきた子どもたちは、

石巻に移住すると聞いても、特に驚かなかったのだろうと夫紀子さんは笑う。

【街に色を取り戻したい】

住まいは、海の近くで壊滅的な被害を受けた

石巻の大街道(おおかいどう)エリアで、半壊した集合住宅の1棟を借りた。

大家さんが再起をあきらめ、取り壊そうとしていた物件だが、

一級建築士である文吾さんの手にかかれば、すぐに住めるようになった。

被災がひどかった大街道というエリアにあるご夫妻の自宅

被災がひどかった大街道というエリアにあるご夫妻の自宅

 

再建は絶望的と思われた街に、

身軽な自分たちが率先して住みつくことで、

地元の人も少しづつ戻ろうという気持ちになるかもしれない……。

夫妻は、建物がなくなった家の前や裏の空き地も借り受けて整備し、

移住後すぐに、畑を作ったり、木や花を植え始めた。

「周りの人たちには、まだ早い、そんな余裕はない、と思われたかもしれません。

でも、植物が成長するには何年もかかるでしょう。

みなさんが落ち着いて、ふと周りを見渡した時、

そこに花が咲いていたら、と思いました」

街に色を取り戻したい。

それは、被災直後の石巻の姿を目撃した建築士・文吾さんの強い思いだった。

「最近では、畑でとれた野菜をおすそ分けするなどして、

ご近所づきあいが増えてきました。

そのことがなによりも嬉しく、感慨深い」と夫紀子さん。

被災した土地で家を直して住むことから始めた移住生活も、

「最近、ようやく花が咲いてきた」と笑う。

DSC_0025 (5)

今年で5年目の春を迎えた自宅前の畑。色鮮やかなチューリップが咲き誇っている

裏の空き地を利用した畑。野菜は近所にお裾分けも

裏の空き地を利用した畑。野菜は近所にお裾分けし、喜ばれるようになった

地域の人たちに「お茶っこ」してほしいと建てた温室兼フリースペース

地域の人たちに「お茶っこ」してほしいと建てた温室兼フリースペース

手製のピザ窯。まだ試行錯誤中だが、完成すればご近所とのピザパーティも実現する

まだ試行錯誤中の手製のビザ窯。完成すればご近所とのピザパーティが実現するかも

 

【建築士として、移住者として】

文吾さんはもちろん、一級建築士の腕を活かして、復興住宅の建設などにも関わった。

しかし、地元業者とのやり方の違いに戸惑うことは多く、

今では第一線の現場に立つことはなくなってしまったと話す。

「自分は名古屋で、年間100軒の家を建ててきましたが、

こちらだと、おそらく数軒なのでしょう。

一緒に仕事をしてもペースが違いすぎ、ぶつかることが多かった。

建築にかけるお金の使い方も合わなくて。

自分がやれば、もっと安く建てられるはずなのですが……」

仕事で関わるには「厚い」と感じた地元の壁。

以後はボランティアで、

牡鹿半島にある小さな浜の整備に関わるようになっている。

この活動を通じ、仮設住宅に住まう浜の住民たちとも懇意になった文吾さんは、

高台への集団移転について相談を受けるなど

建築士としても頼られる存在に。

また、地元の大工から廃材をもらい受け、再利用などするうちに、

最近では向こうから声を掛けてきてくれるようになった。

「半島の方では少しづつ、同業者の意識も変わってきたように思う」と文吾さん。

年齢を重ね、仕事に追われる必要がないリタイアの身だからこそ、

深い知識と経験を活かし、できることは増えるのかもしれない。

DSC_0071 (4)

これからは「今まで自分たちが植樹した木や花を見て楽しみたい」とおふたり。自分たちが居ることで、少しでも街の色になれたら、と語る

今月のぼにぴん人

我ら、ぼにぴん人